wanshannan’s diary

ドラマ、映画、ゲームの感想を中心にその他のことも書きます。

6/1-2 人種差別が撲滅されなければならない理由

【6/1】

唐突に宝塚のノバホサノバのことを考えていたら、作品の希少さと独創性と熱量と歴史と演者の必死さに感動して気を抜くと涙が出そう。ほぼ全員黒塗りで、裸足で、踊りっぱなしで、舞台は傾斜していて、宝塚の中でもイレギュラーな公演である要素はこんなにもある。同時上演の芝居の軽さを見ると、やっぱノバボサノバだけで普段の公演2本分(芝居とショーという意味)の体力を使っているんじゃないかと思う。たぶん、スタッフの負担もヤバイと思う。衣装もセットも曲もなにもかも。だから10年に一回くらいしかやらないのかな。ノバホサノバ観劇したい。ゆづきからもう10年近くたつ。どうかわたしが生きているうちに再演してください。
作曲家の欄見てると、当時のスタッフ総動員で書いてるから、当時の宝塚歌劇団の英知を結集して作った宝物というか、財産というか、伝家の宝刀というか、そんな感じ。私は映像で99年の雪と月を何度も見たけれど、初舞台生がいるから人の密度がとても高くてカーニバル感あふれているんだよね。舞台上に100人くらいいるのさ、圧倒だよ。はー、観劇してえ。ドアボーイという単語に興奮して狂いそう。ドアボーイは大事なんです、とてもとても。

リオのカーニバルを描いた演目なんだが、歌詞の一部が再演の時に変更されている部分がある。

白い色も黒も黄色もカルナバルのカリオカ→世界中の男も女もカルナバルのカリオカ

世界中の誰も彼もが参加しようぜっていう表現なのに、なんかこういう変化をさせなければいけない世の中が嫌だ。色は、もちろん肌の色についていってるんだけど、別に差別を促進しているんじゃなくて、むしろ関係無いだろって歌詞なのに、なぜ変えなければならなかったのかわからん。やっぱ、変えなければいけない世の中がいけないよな。何に対する配慮だ。歌詞を変えたら人種差別が減るの?違うでしょ。

 

【6/2】

6/5に予定していたPS5のお披露目映像配信が延期になった。どうやら黒人差別撤廃運動に関する報道を後押しする為、PS5の詳細情報という世界中のゲーマーにとってのビッグニュースの時期を遅らせる措置のようだ。ソニーの方針には納得いった。しかし、ソニーの方針を決定づけた人種差別が、心の底から憎い存在となった。まじアメリカが建国されてからの課題を200年以上も改善できていない点で、たいしたことねえ国だなと思わざるを得ない。自分が200年以上前からの悪しき慣習に取り込まれていることを自覚しろ。人を見下したり馬鹿にしたりする心根は教育と環境によって形成される。その2点をもっと、もっと重視して対策するべきだ。差別というのは人種に限らず親の仕事とか成績とか住んでる場所とか学校とかそういうのも含まれているので、単一民族のなかにも差別はある。自覚がなくても差別意識は絶対に誰でも持っているから、自分の思考を検分し続けることが最も大事。他人の思考は変えられないけど自分はできるでしょう。簡単に人へ暴力を振るわない人間にするために、他者の存在を尊く思える人間にするために、安心して経済活動を送るために、人が傷ついたり死んだりしないために、私が楽しくゲームライフを謳歌するために、人種差別をはじめとするあらゆる差別を軽蔑する。私の幸せを奪うな。お前達に私の幸せを奪う権利はない。即刻、私の幸せを返せ。


まぁ、こんな感じで日中はイライラしてしょうがなかった。憤懣やるかたないので、せめて私の小銭になれと思い原稿を書き始めた。ただ、本日はペルソナ5の登場人物、明智吾郎の誕生日だけではなく、もう一つ個人的なイベントがあった。2年前、2018年6月2日は連続ドラマ「おっさんずラブ」の最終回放送日だったのだ。せっかくなので、当時の放送時間に合せて円盤で最終話を見ながら、ツイッターで実況したり、同じく実況している人たちを観察しながら楽しんでいた。オタク活動は楽しいものだ。


一昨年の今日は白鳥を焼く男を4回連続で聴いて、串とオイスターで酒飲みながらポーの話して、上野駅から走ってホテルに飛び込んでテレビ見てた。すごい、幸せだった。あれより幸せな日、あったかなあ。いい作品でも見るタイミングってのはすごく満足度や気持ちが上がるのに関連していて、史上最高のタイミングで見られたなと改めて確認した。